1.時代を切り | ||||
教科書会社 | 扱い方 | 取り上げている項目 | 記述の概容 | |
日本書籍新書 | 151P 本文 | 民主主義を学ぶ | 自由民権運動のなかで男女平等の考え方も生まれ、景山英子のように運動に加わる | |
151P 肖像画 | 同上 | 自由民権をうったえる岸田俊子(1863〜1901)男女同権をうったえる。結婚して中島姓となる。後に横浜フェリス女学校の教師となる。 | ||
168P 写真 | 教育と科学 | アメリカに留学した5人の少女。岩倉使節団に同行した最年少は7歳の津田梅子。 | ||
169P 本文 | 同上 | 与謝野晶子は「みだれ髪」などで青春の情熱を歌によみあげた。 | ||
172P | さらに深めてみましょう | 君しにたまふこと勿れ 詩全文掲載 | ||
帝国書院 | P156コラム写真 | 新政府の外交 ・5人の留学生 | 津田梅子は帰国後に、現在の津田塾大学となる塾を作りました。 | |
P167本文 | 女性と政治 | 自由民権運動には女性の参加者もいて、男女同権を主張した。 | ||
女性の権利は制限を受け、政治活動が禁止された。女性には選挙権が与えられず。 | ||||
P173本文 | 日露戦争 | 与謝野晶子は日露戦争のさなかに弟の生死を心配する詩を書いた。 | ||
大阪書籍 | P158コラム | 日露戦争 | 与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ・・・」の詩の1連目 | |
P165コラム・写真 | 教育の普及 | 日本最初の女子留学生である津田梅子は、帰国後、女子教育に尽くしました。 | ||
P165本文 | 文化の近代化 | 平塚らいてうは 家制度を批判し、女性の解放を主張した。青鞜社宣言の要約「元始・・・」 | ||
扶桑社 | P176写真・コラム | 明治文化の花開く | 「津田梅子」「日本の良いものを、悪いものと一緒に捨ててはいけないと戒め、日本の伝統を大事にしていた。卒業式などの公式の場で和服を通したのも、その現われだった。『日本の伝統の中で、大切なものは?』とアメリカのルーズベルト大統領夫人に聞かれ『犠牲の精神と忠誠』と答えた。」 | |
p174写真・本文 | 明治文化の花開く | 与謝野晶子:日清戦争の前後には、人間の自由な感情を重視するロマン主義が起こり、活躍 | ||
p158 | 自由民権運動 | (女性の登場は無し) | ||
東京書籍 | p148(絵)(本文) | 女性留学生(津田梅子) | 英語教育を通じて新しい時代に活躍する婦人の育成に努めた | |
p151(絵)(本文) | 岸田俊子(自由民権家) | 人間世界は男女が協力していつくるものであり、男女同権は社会の改良、 | ||
人間の進歩をはかるために必要であると主張 | ||||
p158(写真) | 与謝野晶子 | 主戦論に疑問を投げかけ、日露戦争に出兵した弟をおもって、「君死にたもうこと | ||
なかれ」という詩を発表。 | ||||
文教出版 | 女性と子どもの歴史C | 女子留学生(津田梅子):英語教育を通じて新しい時代に活躍する婦人の育成に努めた | ||
岸田俊子:人間世界は男女が協力してつくるものであり、男女同権は社会の改革、人間の | ||||
進歩をはかうために必要であると主張。 | ||||
文教出版 | 138P(本文) | 日露戦争 | 与謝野晶子「君死にたもうことなかれ」(全文) | |
清水書院 | 記述なし | |||
教育出版 | p131写真(本文) | 日露戦争 | (与謝野晶子)日本軍が旅順を攻めているとき、戦場の弟の身を案じて | |
「君死にたもうことなかれ」と題する歌を発表した。 | ||||
p138(本文) | 学校教育の普及 | (津田梅子)女性教員を育てるために女子師範学校をつくり、津田梅子が津田英学塾 | ||
を設立。民間女子教育もさかん。 | ||||
2、戦争に関す | ||||
日本書籍新社 | 159P 本文 | 日本とロシアが戦争する | 新聞や雑誌の多くが、ロシアとの開戦を主張した。これに対して、キリスト教徒の内村鑑三や社会主義者の堺利彦、幸徳秋水らは戦争反対をとなえた。多くの国民は戦争に協力したが、増税と物価の上昇によって、生活は苦しくなった。戦争で日本は日清戦争の9倍の戦費を使い、約46万人の死傷者を出した。 | |
161P (写真or絵) | 戦場となった満州 | 戦争は日本とロシアの間で戦われたが、戦場となった満州の民衆はみじめであった。 | ||
171P 本文 | さらに深める学習 | 日露戦争をめぐるさまざまな意見―戦争を主張する意見、反対する意見の紹介 | ||
193P 写真 | アンネ=フランク | アンネは家族や知人と2年あまりかくれていたが、ユダヤ人狩りで発見され、収容所で死亡した。 | ||
198P 本文 | 宣戦布告なき戦争 | 20万人ともいわれる捕虜や民間人を殺害し、暴行や略奪もあとをたたなかったため、厳しい国際的非難をあびた(南京事件)。 | ||
199P 本文 | すべてを戦争へ | 朝鮮や台湾では、日本への同化を強制する皇民化政策が進められ、特に朝鮮では日本式の姓名を名のらせる創氏改名や神社への参拝が強制された。 | ||
202P 本文 | まぼろしの大東亜共栄圏 | 強制連行された朝鮮人の数は約70万人、中国人の数は4万人とされている。また、軍の要請によって日本軍兵士のために朝鮮などアジアの各地から若い女性が集められ、戦場に送られた。 | ||
204P 本文 | ほしがりません勝つまでは | 政府は国民徴用令により、国民を強制的に工場などで働かせただけでなく、未婚の女性や女学生、中学生まで工場にかりだした。農村では人手と肥料の不足になやまされながら、次第に女性が農業を支えるようになっていった。 | ||
206P 本文 | 沖縄の悲劇 | 1945年4月には、アメリカ軍が沖縄本島に上陸し県民もまきこんだはげしい戦闘がおこなわれ、県民の犠牲者は12万人にものぼった。また日本軍にスパイ容疑で殺されたり、「集団自決」を強制されたりした人々もあった。 | ||
206P 写真 | 沖縄戦 | うつろな少女と題された写真 戦後になって男の子であることがわかった | ||
207P 本文 | ファシズム陣営が敗北する | この戦争での日本人の死者は軍人民間人を合わせて約310万人(朝鮮人・台湾人 | ||
5万人をふくむ)。アジア諸国の死者は中国だけでも1000万人をこえているといわれ | ||||
ている。 | ||||
207P 注記 | 同上 | 1950年までの死者は広島20万人、長崎10万人にのぼった。原爆投下には戦後 | ||
の世界でソ連に対して優位にたつというねらいもあった。 | ||||
日本書籍新社 | 227P 写真 | 新安保条約がむすばれる | ベトナム戦争の犠牲者 アメリカ軍の攻撃をのがれて川をわたるベトナム人の母子 | |
231P 本文 | さらに深める学習 | 強制連行、南京事件の犠牲者たちなどが日本政府による謝罪と補償を | ||
日本の戦後処理 | 求めて次々に裁判をおこしている。 | |||
帝国書院 | P? | 日中戦争? | 南京では〜女性や子どもを含む多くの中国人を殺害し「日本軍の蛮行」(南京大虐殺) | |
P207コラム | 第二次世界大戦の始まり | アンネの日記(地図アンネの写真) 本文では・・・ドイツのユダヤ人への迫害 | ||
P210 | 長引く戦争と苦しい生活 | 飛行場で働く女学生達(写真) 勤労動員・学徒動員・集団疎開・配給・やみ市・空襲 | ||
P231 側注 | 戦後補償と近隣諸国 | 戦時中、慰安施設に送られた女性や〜徴兵された韓国・台湾の男性などの補償問題裁判 | ||
P211 写真も | 戦場となった沖縄 | 〜人々は集団死に追い込まれたり〜日本兵に殺害されたり〜、日本軍に食料を奪われたり・・ | ||
P212〜3 | 原爆の投下 | 原子爆弾の投下・戦場となった沖縄と題し写真コラムで詳しく記述、死者の数も載せている | ||
ある少女の日記ものせて、身近な言葉から考えさせている | ||||
P174コラム | 韓国併合についてのうた | 石川啄木「地図の上 挑戦国に黒々と墨を塗りつつ 秋風を聴く」他 朝鮮の人のうたも | ||
本文P174〜5 | 植民地支配 | 伊藤博文と安重根 孫文 三民主義 辛亥革命をあつかているネ ールから娘への話 | ||
P191 | 拒まれたアジアの民族自決 | 三・一運動や五・四運動をきちんと扱っている 柳寛順(ユ・グァン・スン)16歳の闘い | ||
P 208〜9 | 抗日運動 外国の教科書がとらえる日本の支配 三亜運動 「ロームシャ」について扱う | |||
・・・・日本軍占領時代は人々の力と富を根こそぎ奪ってしまった | ||||
大阪書籍 | P195 | 中国との全面戦争 | 〜首都南京では、捕虜の他婦女子を含む多数の住民を殺害しました。(南京事件) | |
P197 | ドイツ・イタリアの抵抗 | アンネフランク写真 収容所に送られ15歳でなくなりました | ||
P201 | 戦場となった沖縄 | (写真)捕虜になった少年兵 本土の防波堤 集団自決 4人に1人の犠牲者 12万人以上 | ||
P202〜3 | ヒロシマとナガサキ | 被爆直後の広島市の写真 犠牲の多くは婦女子 死者や被害の数も表や写真等で詳しく提示 | ||
P160 側注 | 韓国併合 | 日本国内が韓国併合〜でわきかえる中、石川啄木は批判の詩を書いた。「地図の上・・・・」 | ||
P179 | 朝鮮と中国の独立運動 | 民主主義の高まりと民族独立運動 三・一運動 五・四運動を扱っている | ||
扶桑社 | 163P本文 | 日清戦争 | 「朝貢国が次々と消滅していくことは、皇帝の徳の衰退を意味し、中国を中心とする、東アジアの、秩序が崩壊する危険を示すものだった。そこで、清は有力な朝貢国である朝鮮だけは失うまいとし、日本を敵とみなすようになった。(日清戦争での)日本の勝因は、軍隊の訓練規律にまさっていた。が、その背景には、日本人全体の意識が、国民として一つにまとまっていた。」 | |
199Pコラム | 日中戦争 | この時、日本軍によって、中国の軍民に多数の死傷者がでた。(南京事件)。なおこの事件の犠牲者数などの実態については、資料の上で疑問点も出され、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている。」 | ||
扶桑社 | 208P〜9P | 戦時下の生活 | 大東亜戦争の戦局が悪化すると、国内の統制はさらに強化された。未婚女性は女子挺身隊として工場で働くことになった。」 | |
210,211P | 「終戦外交と日本の敗戦」 | 「8月6日、アメリカは世界最初の原子爆弾を広島に投下した。」(たった2行半)(211P)「又同日、アメリカは長崎にも原爆を投下した。」(たった半行) | ||
208P〜9P | 戦時下の生活 | 国民の戦争協力は大きくとりあげ、賛美。(他の教科書には無い)「日本の将兵は、敢闘精神を発揮してよく戦った。」「多くの国民は、よく働きよく戦った。それは戦争の勝利を願っての行動であった。」「お国」のため国民は命を投げ出して一致協力せよと訴えている。 | ||
東京書籍 | p188(本文) | 日中戦争 | (本文)大勢の中国人を殺し、 | |
(本文)南京を占領。女性や子どもを含む中国人を大量に殺害しました(南京事件) | ||||
(注記)この事件は南京大虐殺として国際的に非難されましたが、知らされません | ||||
でした。 | ||||
戦争の犠牲 | 空襲や疎開、また、女性や子どもも含めて一般の人々も多くの犠牲者を出した。 | |||
日本につれてこられて、意思に反し、働かされた朝鮮人、中国人。過酷な労働で賃 | ||||
金も低く、厳しい生活を強いるものでした。 | ||||
p194(本文) | 日本の降伏 | (本文)東京大空襲では、8万以上の市民が犠牲となり、100万人が焼け出された。 | ||
(写真) | 広島の廃墟:広島では20万人、長崎では14万人以上の人々の生命が奪われた。 | |||
アジア諸国の犠牲者は合計2000万人以上といわれている。 | ||||
文教出版 | p138(本文) | 日露戦争 | (本文)与謝野晶子、大塚楠緒子など女性の立場から戦争の悲しみを謳った。 | |
p172(本文) | 日本の中国侵略 | (本文)大陸へ勢力を拡大しようとする軍人や資本家、国家主義者は、欧米と協力 | ||
して、軍縮を進める政府を弱腰であると非難。 | ||||
日中戦争 | (本文)大勢の中国人を殺し(南京大虐殺)、国際的に非難されたが、日本の国民に | |||
は知らされなかった。 | ||||
p172(本文) | 植民地への統制 | (本文)創氏改名や植民地の人々は、戦争下にあって、「天皇の民」にふさわしい | ||
皇国の臣民となるように同化を強要された。 | ||||
日本の戦争とアジアの人々 | (本文)この戦争を欧米の植民地からアジアの民族を解放するための戦争という位置 | |||
づけで、大東亜戦争と呼んだ。しかし、植民地の独立を認めず、占領下の住民を、労 | ||||
務者として徴発した。朝鮮から70万人、中国から4万人の人々が日本につれてこられ、 | ||||
過酷な労働に従事させられた。日本の支配に対する抵抗運動や独立運動が強まった | ||||
文教出版 | 学徒動員 | 集団疎開や空襲があった | ||
p184(写真) | 東京大空襲 | 8万人が人がなくなり、26万前後の家屋がなくなった。 | ||
p185(写真) | 広島の原爆 | 広島14万人、長崎7万人の人の命が失われた。今なお、苦しんでいる人が多い。 | ||
p187(絵) | 原爆の図 | 丸木 位理、俊製作 | ||
清水書院 | p196 | 日中戦争と中国民衆 | 物資の補給体制、きわめて不十分…物資の略奪、放火、虐殺などの行為、特に南京 | |
占領。民衆を無差別に殺害ー死者数は多数に上ると推定。 | ||||
p203 | 戦時下の朝鮮 | 皇民化政策…人々は深い憤りをもった。 | ||
p204 | 戦争と民衆 | 植民地や占領下、朝鮮20万人、台湾2万人、強制連行朝鮮72万人、中国4万人。 | ||
p206 | 日本の敗戦 | 4月1日アメリカ軍は沖縄本島に上陸し、…6月にこれを占領。住民12万人以上が犠牲。 | ||
アメリカは…早期終結を名目に、ソ連に対抗する目的もあって、広島、長崎に原爆投下 | ||||
都市の壊滅、20数万もの生命を奪った。 | ||||
教育出版 | p166 | 日中戦争戦争のはじまり | 日本は混乱の中で、多数の捕虜や住民を殺傷して国際的非難を受けた(南京事件) | |
皇民化政策、日本語の使用、創氏改名、神社参拝の強制。 | ||||
p173 | 朝鮮と台湾 | 多くの朝鮮人女性なども工場に送り出された。 | ||
p174 写真 | 軍国主義の敗北 沖縄 | 死者12万人以上。中学女学生の守備隊も降伏後1ヶ月近く戦闘はつづく。 | ||
p176写真 | 原爆 | アメリカは…ソ連より優位に立つねらいもあり、8月6日広島、8月9日長崎に原爆投下。 | ||
3、参政権 | ||||
日本書籍新社 | 155P 注記 | 議会が開かれる | 女性は選挙権、被選挙権を認められなかっただけでなく、政治集会に参加することも禁止。 | |
187P 本文 | 社会運動の高まり | 1920年には、平塚らいてふや市川房枝らが新婦人協会をつくり、女性の政治参加など | ||
男女平等をめざす運動を進めた。 | ||||
187P 注記 | 同上 | すでに1911年、平塚らいてふは青踏社という女性の文芸団体をつくって「原始、女性は太陽であった」とよびかけ、女性の解放をめざしていた。 | ||
189P 注記 | 普通選挙と治安維持法 | 女性の選挙権、被選挙権は認められなかったため、女性たちは政治参加の権利を求めて | ||
婦人参政権運動をくり広げた。 | ||||
220P 写真 | 憲法の制定 | 街頭で演説する女性候補者 | ||
221P 本文 | 民主化の進展 | 女性がはじめて選挙権を行使した1946年の戦後最初の総選挙では39名の女性議員が | ||
誕生した。また、1947年の民法改正で封建的な家族制度が廃止され、男女の平等を | ||||
原則として新しい家族制度が定められた。 | ||||
日本書籍新社 | 221P 資料 | 同上 | 女性が参政権を実現した年(日英独米仏) | |
221P 研究問題 | 同上 | 法律のうえでは男女平等が実現したが、女性に対する差別は本当になくなったのだろうか。 | ||
P193本文 | 6章1−4 | 平塚らいてう−青鞜社ー市川房枝を取り上げている | ||
帝国書院 | 本文P193 | 女性参政権を求めて | 女性差別の解消を求める運動もさかんになった。平塚らいてう−青鞜社ー市川房枝を扱う | |
「元始、女性は太陽であった」と宣言。女性に対する古い習慣や考え方を批判する活動をした。 | ||||
1925年の普通選挙は男性のみに限られ、女性にはない。日本の女性が選挙権を得るまで | ||||
長い時間がかかりましたと世界との比較の表(ニュージーランド1893〜日本1945) | ||||
コラムP221 | 社会に進出した女性達 | 1946年初めて女性の選挙権が認められ、39人の女性国会議員が誕生 | ||
大阪書籍 | 写真 P182 | 広がる社会運動 | 女性の地位向上を目指す運動拡大 1920 平塚らいてうや市川房枝らは、新婦人協会を | |
結成し 女性の政治活動への参加や選挙権の獲得を目指した。 | ||||
P186 | 歴史を掘り下げる | 女性の自立と参政権の要求・・・・与謝野晶子の「そぞろごとの歌(山の動く日来る)」 | ||
平等な社会をめざして | 参政権は1945年に獲得した。 | |||
扶桑社 | p187 | 政党政治の展開 | 〈平塚らいてう〉・・・[女性の地位を高める婦人運動も開始され、婦人参政権が主張されるようになった。] (市川房江、青踏社、岸田俊子、新婦人協会の記述ナシ) |
|
東京書籍 | p179(写真) | 新婦人協会の第1回会議 | 男女同権、女性や母親の権利を守ることをかかげて結成 | |
p179(絵) | 青鞜 | 青鞜社宣言(原始、女性は太陽であった) | ||
p179(本文) | 平塚雷鳥 | (本文)政治活動の自由、女子高等教育の拡充、男女共学、母性保護などを求める | ||
運動を繰り広げた。女性参政権を求める運動も本格化した。 | ||||
文教出版 | p43写真 | 初めての女性議員 | 初めて女性の参政権が認められた。39名当選。 | |
p150 | 女性と子どもの歴史D | 新婦人協会の第1回会議:「婦選なくして普選なし」と女性の参政権を獲得する運 | ||
動を展開した。 | ||||
清水書院 | p207写真 | 日本国憲法 | 政党や学者の草案もあり、女性も参加した初の選挙で成立した国会で成立。憲法の3原則と民法の改正 | |
p187写真 | 新しい憲法と家族制度 | 女性には参政権が認められなかったため、女性の地位向上と権利拡大をめざさす運動が。 | ||
すすめられた。新婦人協会の発足、平塚らいてう。 | ||||
教育出版 | p155写真 | デモクラシーの波 | 女性を社会的差別から開放し、その地位を高めようとする運動は…平塚らいてうらによって | |
教育出版 | すすめられ、大戦後には婦人参政権実現をめざす運動にもあたった。 | |||
p181写真p183 | 教育の民主化。新しい民法 | 20歳以上の男女すべてに普通選挙権、日本国憲法、3原則と平和主義、男女共学…? | ||
その他 女性 | ||||
日本書籍新社 | 37P 本文 | 大和政権の女性の地位 | しかし女性の地位も高く、ときには神を祭る者としてあがめられた。 | |
古墳の中には、女性が古墳の中心にほうむられたものもあり、女性の首長もいたらしい。 | ||||
45P 本文 | 身分と女性 | 戸籍には夫と妻は生まれた氏の名を記されたので夫と妻で氏の名がことなることがあった。 | ||
なお、古代の家族には、一夫多妻制がみられた。 | ||||
69P 本文 | 武家の女性 | 武家の女性は結婚しても生家の姓を名のり、親の領地を受けついだ。夫婦の財産はべつの | ||
ものと考えられていたため、夫はかってにそれを処分することはできなかった。 | ||||
69P 注記 | 同上 | 鎌倉時代の終わりごろからは、女性が親の領地を受けつぐことがむづかしくなった。 | ||
111P 本文 | 江戸時代の女性 | 女性の地位は武家をはじめ大きな農家や商家では低かった。家をつぎ絶やさないことが重視 | ||
されたので、子どもを産めない嫁は絶縁されることもあった。 | ||||
一般の農家では、妻は田植えなどの農作業をするほか、育児や炊事、機織りなどで休む時間 | ||||
も不足がちょであった。夫が死んだとき、男子が成人していなければ、妻が一家のあるじとな | ||||
った。 | ||||
120P 資料(絵) | 新しい学問がおこる | 庶民のための学問が説かれ、女子も聴講を許されたが、席はべつだった。 | ||
125P 本文 | 寺子屋で学ぶ子どもたち | 先生(師匠)は女性もいた。男女共学だったが、女子の数はずっと少なかった。 | ||
当時は女子には学問は必要ないと考える人が多かったからだ。 | ||||
166P 本文 | 労働問題と社会主義 | 製糸業や紡績業の女性労働者は寄宿舎に入れられ、外出も自由にできなかった。 | ||
賃金は低く、労働時間は一日十時間に及ぶ場合もあった。 | ||||
167P 本文 | 教育と科学 | 女子教育のための女学校も設立されるようになった。女性には、「良妻賢母」になることが | ||
求められた。 | ||||
173P 本文 | 工場で働く子どもたち | 紡績工場では女子工員が大部分をしめていた。 | ||
彼女たちの状態も悲惨なもので「女工哀史」にようすが、くわしく紹介されている。 | ||||
190P 本文 | 生活のしかたの変化 | バスの車掌や電話交換手、タイピストなどの職業に女性が進出した。 | ||
帝国書院 | 本文P220〜1 | 憲法 | 戦争放棄の絵載せている。「総司令部の押しつけ」といわれることもあるが、三つの点で新 | |
コラム | 「あたらしい憲法のはなし」 | しい時代に対する当時の国民の気持ちが盛り込まれた。(国民主権・平和・基本的人権) | ||
写真 | 日本国憲法では男女の同権・結婚の自由があり、夫と妻は法律上同じ権利を持つ。 | |||
写真P123〜4 | 歴史の舞台6 | 多くの女性が共同作業を行っています。(工場制手工業の綿織物) | ||
P189 | 変わる社会と諸対策 | 富山県漁村の主婦の米騒動 | ||
P232 | 21世紀への取り組み | グローバル化が進む現在、国連と協調した平和のための活動や、さらには教育・環境 | ||
帝国書院 | などの面でも貢献が期待されています。 | |||
大阪書籍 | P214 | 新しい日本と世界 | ||
平和と民主主義 | 日本国憲法は戦争の惨禍を引き起こさない国民の決意を示した。 | |||
P215 | 民主化の進展では | 男女平等 「国民運動」の側注で女性の選挙権を1946年に獲得したことを記述 | ||
本文P72〜3 | 歴史を掘り下げる | 近代女性と比べて自由や、一定の地位を持ってもいた。 | ||
コラム | 「中世の女性たち」 | 外国人の日記・・・日本ではしばしば妻が夫を離別する。 女性は男性に近い地位にあった。 | ||
写真 | 家を支えていた武家の女 | |||
商いをする女性たち | そうめん売り・豆腐売り・市場で働く女性達 女房座の説明 | |||
写真 P181 | 大正米騒動 | 越中女房一揆 | ||
本文P186 | 歴史を掘り下げる | 江戸時代の女性=「家」と女性 | ||
平等な社会をめざして | 三行半の離縁状を夫に書かせた。 | |||
1.女性の自立と男女の | 近代の女性=民法と女性 「家」と戸主 家制度 | |||
平等をめざして | 女性の自立と参政権の要求・・・・与謝野晶子の「そぞろごとの歌(山の動く日来る)」 | |||
参政権は1945年に獲得した。 | ||||
P227 | 国際社会と日本の役割 | 日本には憲法の理念を生かしつつ、世界平和に貢献していく事が求められています。 | ||
側注で イラクで人道復興支援活動を行う自衛隊の写真 | ||||
文教出版 | 女性とこどもの歴史@(2ページ | 奈良時代、戸籍は別姓。通い婚(母系制) | ||
農業の中心的役割を女性が担っていたことや、原始時代から母親中心の家族 | ||||
生活が続いていたことなどと考え合わせると、女性の社会的地位が高かった。 | ||||
女性とこどもの歴史A(2ページ | 商業の発達で女性が働くようになった(中世) | |||
(鎌倉〜室町時代) | 女性が一家の主婦、家庭内で強い権限を持っていた、 | |||